第一三共は、2005年に第一製薬(1915年創業)と三共(1899年創業)が経営統合して誕生した、日本発の大手研究開発型製薬企業である。2023年度の連結売上収益は約1兆4,000億円規模、時価総額は東証プライム上位に位置し、日本の製薬企業としては武田薬品に次ぐ「ナンバー2」のポジションを長く維持してきた。
同社が直面した産業環境は、2010年前後からの特許切れによる「特許クリフ」と、ジェネリック薬の浸透、さらに厚生労働省による薬価引き下げという三重苦である。加えて、がん・循環器・希少疾患など対象疾患の高度化により、開発費は1品目あたり数千億円規模に膨張した。その中で第一三共は、循環器領域の主力薬「オルメサルタン(オルメテック)」の特許切れを経験しながらも、がん領域への集中投資で再成長を図る戦略アイデンティティを明確化した。
現在の企業アイデンティティは、「日系企業でありながら、がん領域のグローバル・イノベーター」という一点に収斂している。特にHER2陽性乳がん向け抗体薬物複合体(ADC)「エンハーツ(trastuzumab deruxtecan)」が2020年代前半から世界売上を急拡大させ、第一三共は日本の枠を超え、米欧市場で存在感を持つ数少ない日系製薬企業として不可欠なプレイヤーとなった。
第一三共の収益構造は、もともと循環器・代謝系の生活習慣病薬と国内処方市場に強く依存していたが、2019年以降はエンハーツを中心とするがん領域がキャッシュフローの主軸に転換した。公開情報ベースでは、近年の売上の約7割前後を医療用医薬品が占め、その中でもオンコロジー(がん)関連製品が成長ドライバーとなっている。
経済エンジンの構造的特徴は、エンハーツのような高薬価・高付加価値のバイオ医薬品を、グローバルパートナーとの提携を通じて世界市場に展開するモデルである。2019年のアストラゼネカとの提携では、最大65億ドル規模の契約金・マイルストンを獲得しつつ、販売収益のロイヤルティと利益分配を受ける枠組みを構築した。これにより、単独では負担しきれない世界同時開発・販売体制のコストとリスクを抑えながら、研究開発費比率20%超という高水準投資を支えるキャッシュフローを確保している。
言い換えれば、同社の「捕捉の論理」は、特定の技術領域(ADC)における卓越した創薬技術と、グローバルメガファーマとの共同開発・販売スキームの組み合わせによって、1品目あたりの経済価値を最大化することにある。
第一三共の構造的な優位性は、抗体薬物複合体(ADC)技術、とりわけ「DXd技術」と呼ばれる独自プラットフォームに集約される。これは、抗体に結合させる細胞障害性薬物(ペイロード)とリンカー構造の設計により、がん細胞への高い選択性と強力な殺細胞効果を両立したもので、エンハーツやDS-7300など複数パイプラインに水平展開されている。
ADCは、単なる分子模倣ではなく、抗体工学・有機合成・薬物動態・製剤技術・製造スケールアップを統合したシステム技術であり、製造プロセスも含めたノウハウの塊である。この総体としての「暗黙知」が、後発参入を難しくしている。さらに、国内外で多数の特許網を構築し、HER2以外の標的にも適用可能なプラットフォームとして権利化している点が、模倣を一段と困難にしている。
加えて、明治期から続く製薬事業の歴史を通じて、国内医療機関との長期的信頼関係、MRネットワーク、薬価・保険制度への深い理解を蓄積しており、これは新興バイオベンチャーには欠けがちな「制度・市場インフラへの組み込み」という特権的優位性となっている。
同社の戦略的転換点は、2016年前後に明確化した「がん領域シフト」と、2019年のアストラゼネカとのエンハーツ提携である。
2010年代前半、主力の高血圧薬オルメテックの特許切れと薬価改定により、国内収益の伸びは頭打ちとなった。2010年にはインドのランバクシー買収によるグローバル・ジェネリック戦略が、品質問題と訴訟対応で期待通りの成果を上げられず、2014年以降、第一三共はジェネリック中心の拡大型戦略から撤退・縮小を余儀なくされた。この失敗経験が、「量ではなく、技術とイノベーションで勝つ」という方向転換の土台となる。
2016年に公表された中期経営計画では、オンコロジーと外部パートナーシップへの集中が明確に打ち出され、エンハーツを中核とするADC群を成長エンジンに位置付けた。2019年のアストラゼネカとの提携決定は、単独で全世界販売権を保持する夢を捨て、代わりに開発スピードと市場浸透を優先するというビジネスロジックに基づく。結果として、米国・欧州での迅速な承認取得と適応拡大が実現し、第一三共は「日系準ローカル企業」から「グローバルがんプレーヤー」へと軌道を変えた。
この地位を得るために、第一三共はいくつかの明確なトレードオフを受け入れている。第一に、事業ポートフォリオの集中である。循環器や一般内科領域の幅広い製品群から、がん・希少疾患など高リスク・高開発費領域へのシフトは、収益の安定性を犠牲にし、パイプライン失敗時の業績変動リスクを高める選択である。
第二に、グローバル展開における「自前主義の放棄」である。エンハーツの販売・開発をアストラゼネカと共同で行うことは、収益の一部をパートナーと分け合う代わりに、世界最大市場である米国・欧州でのスピードとスケールを手に入れる判断であった。これは、自社ブランドの全面的な前面化や、販売体制の完全コントロールを諦める代償を伴う。
第三に、日本的経営慣行との摩擦である。研究開発集中とグローバル化は、拠点再編、人員構成の見直し、意思決定のスピードアップを要求し、従来の終身雇用・年功序列的な人事運用との緊張を生んだ。短期的には組織内部の不確実性や疲弊を招きつつも、長期的競争力のために受け入れたコストと言える。
営業部長の視点から第一三共の軌跡を読み解くと、「集中と選択」と「パートナーシップ」の二つの思考モデルが際立つ。第一に、同社はあらゆる領域で勝とうとする誘惑を断ち切り、ADCという一点突破に経営資源を集中した。これは営業現場においても、重点製品・重点顧客を明確にし、限られた営業リソースを「勝ち筋」に集中的に投下する発想に通じる。全方位的な売上最大化ではなく、「どこで負けてもよいか」を先に決めることが、長期的な勝ち筋を作る。
第二に、自前主義を相対化し、パートナーとの協業を通じて価値創造を最大化した点である。営業組織に置き換えれば、自社だけで顧客接点を独占しようとするのではなく、他社や異業種とのアライアンス、KOL(キーオピニオンリーダー)との協働、デジタルプラットフォームの活用など、「エコシステムの一部として売る」発想が重要になる。
第三に、高リスク領域へのシフトを支えたのは、短期売上ではなく「技術ポジション」をKPIとして重視する思考である。営業部長にとっても、単年度売上だけでなく、顧客の治療方針や処方習慣の中で自社製品がどの位置を占めるかという「ポジション指標」を設計し、それに基づいて活動をマネジメントすることが、長期的なシェアと価格決定力を生む。
第一三共の事例は、高度技術産業における営業リーダーに対し、「どの技術・製品に賭けるか」「誰と組むか」「何を成果として測るか」を、短期利益ではなく10年スパンで設計する必要性を静かに突きつけている。