この本は、「戦略」という言葉が日常語としてすり減ってしまった世界で、それをもう一度、硬質な思考ツールとして研ぎ直そうとする試みです。インフラを扱うエンジニアにとっては、負荷や障害の背後にある「構造」を読むのと同じ感覚で、組織や事業のダイナミクスを読むための視力を与えてくれます。
『Good Strategy / Bad Strategy』が書かれた背景には、「戦略」がスローガンや願望、KPIの羅列とほぼ同義になってしまった現場への苛立ちがあります。多くの企業や組織が「ビジョン」「ミッション」「成長目標」を戦略だと称しながら、実際には厳しい選択も集中もしていない。その結果、見かけだけは立派な資料が量産される一方で、現実の競争環境や構造的な制約にはほとんど手をつけていない——このギャップが、著者を執筆へと駆り立てています。
著者が挑戦している中心的なテーマは、「戦略とは壮大な目標設定ではなく、困難な状況に対して筋の通った応答を組み立てることである」という再定義です。つまり、戦略を「願望の表明」から「診断・方針・行動の一貫したセット」へと引き戻すこと。マクロな経営理論よりも、現実の制約と機会に対して、どのように焦点を絞り、どこにレバレッジをかけるかという、よりエンジニアリングに近い思考様式への転換が狙われています。
著者の議論の中核には、「良い戦略」と「悪い戦略」の対比があります。悪い戦略の典型は、問題の核心を直視せず、抽象的な目標や美辞麗句で覆い隠すパターンです。インシデントの根本原因分析をせずに「可用性を高める」「信頼性を向上させる」とだけ宣言するようなもので、そこには因果構造への理解も、優先順位も、トレードオフもありません。
これに対して良い戦略は、まず「診断」から始まります。状況の本質的な力学は何か、どこにボトルネックや非対称性があるのか、どの要素を動かせば全体が変わるのかを見極める作業です。次に、その診断に基づいて「指針となる方針」を定めます。これは、何をやるか以上に、何をやらないかを含む方向づけであり、エンジニアで言えば「この制約条件のもとで、どのレイヤーに手を入れるか」を決めることに近い。最後に、その方針を現実に効かせるための「一貫した行動群」が組み立てられます。個々の施策がバラバラではなく、同じレバレッジポイントを押すように設計されている点が重要です。
著者はまた、「レバレッジ(てこの原理)」という視点を強調します。リソースを薄く広く撒くのではなく、状況の構造を読み解き、少ない投入で大きな変化を引き起こせるポイントを特定する。ここには、システム設計やパフォーマンスチューニングにおける「支配的要因を見抜く」感覚と非常に近い思考が流れています。
インフラエンジニアにとって、この本の価値は「経営の話を知る」こと以上に、「規模の大きなシステムに対してどう問題設定し、どこに集中するか」という抽象スキルを鍛えられる点にあります。たとえば、技術負債、SLO、コスト制約、組織構造、レガシー依存といった複数の制約が絡む状況で、何を戦略的課題とみなし、どの順番で手を打つか。その判断の仕方に、著者の枠組みは直接乗せられます。
また、「悪い戦略」がなぜ生まれるか——政治的配慮、衝突回避、曖昧さによる責任回避——を理解することは、技術的に正しいだけでは動かない組織の現実を読む助けになります。「これは戦略ではなく、願望とスローガンの束だ」と見抜けること自体が、一種の防御的スキルにもなります。
さらに、自分自身のキャリアや技術的投資にも応用できます。新技術の習得や資格取得を「目標」として列挙するのではなく、自分の環境や市場の構造を診断し、どこに非対称な強みを作るかという視点で選択する。その意味で、本書は「長期的な技術戦略」を個人レベルで考えるための思考テンプレートにもなり得ます。
この本が今も読むに値するのは、「戦略」を流行りのフレームワークやチェックリストに還元せず、むしろ思考の質の問題として扱っているからです。著者は、戦略を「構造を読み、焦点を定め、選択する知的行為」として描きます。これは、インフラの世界でいえば、単なる運用手順ではなく、アーキテクチャ決定の背後にある判断の質を問う姿勢に近い。
また、本書は「良い戦略のレシピ」を与えるというより、「悪い戦略を見抜く目」と「状況を診断する癖」を植え付けようとします。これは、どんな技術やツールが流行しても、長期的に失われにくい認知的資産です。クラウドの形態が変わろうと、組織のスローガンが変わろうと、「それは本当に問題の構造に触れているのか?」と問う視点は、普遍的に機能します。
本書の精神を象徴する一節を意訳すれば、「戦略とは、困難な状況に対して、最も重要な問題を見極め、その問題に集中するための一貫した応答を設計することだ」となるでしょう。そこには、全方位的な最適化ではなく、意図的な偏りと選択を引き受ける覚悟が含まれています。
問いとして残しておきたいのは、「あなたが今関わっているシステムや組織において、本当に『構造を変えうる一点』はどこにあり、そこへリソースを集中させることを、どの程度まで自分の戦略として引き受けているか?」というものです。